今昔マップ on the webの明治44(1910)年発行地図に加工
番号は写真の説明番号と対応
昭和編に続いて今回は明治編。こうしてブログを書いている間にもいくつも???が出てきたのですが、そこを調査して論文を書く・・・という程の熱意も無いので、疑問はただ疑問として書くことにします。
日本鉄道旅行地図帳によると、京橋近辺で最初に鉄道営業を始めたのは後に片町線となる浪速鉄道で片町駅の開業が1895年8月22日。この時点では京橋には駅はありませんでした。浪速鉄道は1897年には関西鉄道となり、1898年に放出から分岐して網島に至る路線を建設、大阪のターミナルを網島に移します。

放出から網島に向かう線路は、現在のおおさか東線から廃止された旧淀川連絡線を辿り、途中から淀川連絡線より少し南にずれて、京街道と交叉する辺りで大阪鉄道とも交叉していたようです。ただ、この路線は1913年には早くも廃線になってしまったので、流石にその痕跡は何も残っていないようです。
ところで、今回は環状線横を京橋から桜の宮方面に歩いたのですが、環状線を潜るガードに残る煉瓦構造物のキーストーンが非常に低い位置(現けた下制限の3.4mからの比例計算だと1.95m程度)にあることに気付きました。どの時代かは判らないのですが、築堤の嵩上げがされたようです。

② 今は桁下3.4mとあるが、キーストーンは2m足らずの場所にある。
さて、話を戻して網島をターミナルとした関西鉄道ですが、やはり大阪(梅田)へのルートは確保したかった様で、1901年には網島から先1.1kmを延長し、既に大阪鉄道を買収して自社路線となっていた桜の宮で城東線に接続します。冒頭の地図で桜の宮駅の東に網島からの線路と城東線が平行している部分が少しありますが、この痕跡は今でも残っています。

③ アーチ状のトンネルは今の環状線 手前煉瓦造りの橋台が明治期のもの
煉瓦造りの構造物は、複線分が2基あり、写真手前側はもちろん網島から来た線路の物と思われますが、奥の煉瓦造りの橋台が改良前の城東線ということになりましょうか。

店舗左に見える、梯子を横倒しにしたような形状の構造物が上下線の真ん中にある

大阪方面行の線路予定地からの写真 両側に梯子を横倒しにしたような形状の構造物がある
次に環状線の北側に廻り、少し桜の宮駅側に歩くと有名な?京阪乗越橋があります。「なんでこんなところに京阪?」という感じですが、城東線は昭和5年頃、失業対策の一環として大規模な改築工事が行われており、桜の宮~大阪間については高架の新線に切り替え、旧線跡を京阪が買い取って大阪(梅田)に進出するという話がありました。結果的にこの話は成就しなかったのですが、京阪の梅田進出の目論見はこの構造物だけに名を残したということになりますね。
ただ、城東線の改築工事は行われたので、大川(旧淀川)には旧城東線の橋台や橋脚が残り、今に当時の姿を伝えてくれることになりました。

大川左岸の橋台部分 直ぐ左にもう一基あるがいずれも落書きだらけで酷い状態

橋脚台座部分も一カ所残っている ネットで調べると橋台は右岸にも残っているようだ